Ferrari logo

各種の瞬間ガレージ
1947
1950
1960
1970
1980
1990
2000
2010
2020
2025
1950
1950

赤のミッレミリア

マルゾットが 195 Sで優勝

赤のミッレミリア
ポッドキャストを再生
340 america
275 F1
340 F1
375 F1
1951
赤のミッレミリア
1950
00:00
1950初めての世界タイトル

赤のミッレミリア

マルゾットが 195 Sで優勝

当時イタリア有数の繊維会社を所有していたジャンニーノ・マルゾットは最も有名なジェントルマンドライバーの一人とされ、「The Flying Count(空飛ぶ伯爵)」のニックネームでも知られています。彼は、プロのレーサーとしても疑いようがないほど卓越した資質を備えていました。

赤のミッレミリア

ジャンニーノは、レース時に着用した衣装でも歴史に名を残しています。スーツ、シャツとネクタイのセットは彼にとって普段着というべきもので、正装して運転するのが当たり前だったのです。ジャンニーノはFerrari 195 Sと340 MMをドライブし、1950年と1953年のミッレミリアで優勝を飾りました。 1953年のル・マン24時間レースにおいても、彼は弟のパオロと組んで5位に入賞しました。このレースで操縦したのは、3リッターエンジンを搭載した340MMを架装した375 MM Berlinettaです。 この結果に加え、排気量4,500 ccの新しい375 MMも他のレースで好成績を収め、フェラーリは1953年に初めて開催された世界スポーツカー選手権で優勝を飾りました。 ジャンニーノ・マルゾットは1948年にエンツォ・フェラーリと出会い、166 Inter Touring 2.0を手に入れるために工場を訪れました。マルゾットが自らマラネッロに足を運んだのは、当時の車は一からカスタマイズすることができたためです。 マルゾット家はフェラーリにとって良い得意先で、ランチアのApriliaに乗ったジャンニーノの速さは特別でした。フェラーリとは意見の相違が多々あったものの、互いに尊敬しあう率直な友好関係を育んだのです。 ジャンニーノがどんなドライバーだったかと言えば、野性的な感でクルマを扱うタイプだったのです。 1949年10月に、フェラーリはヴェルミチーノとロッカ・ディ・パーパを結ぶロードのタイムトライアルに出場するためにマシンを提供し、そこでジャンニーノが優勝を飾りました。その翌年にはマルゾット家の兄弟4人が4台のフェラーリを現金で購入し、ミッレミリアに出場しました。スクーデリア・フェラーリからエントリーしたジャンニーノと長兄ヴィットリオがそれぞれ195 Sを、また弟のパオロとウンベルトもそれぞれスクーデリア・マルゾットの166 MMをドライブしました。

このレースでファンが特に注目していたのは、有名なアルベルト・アスカリとルイジ・ヴィロレージの公式車でした。しかし、この日は悪天候の中で375台が競うことになり、195 S Berlinetta Touringを操縦するジャンニーノ・マルゾット/マルコ・クロサーラ組が優勝をもぎとりました。その後に続いたのは、オートバイチャンピオンのドリーノ・セラフィニ/エットーレ・サラーニ組のフェラーリ、そしてファン・マヌエル・ファンジオ/アウグスト・ザナルディ組のアルファロメオです。

ヴィットリオ・マルゾット/パオロ・フォンターナ組は、フォンターナ自らコーチワークを手がけた195 S Barchettaを駆って9位でフィニッシュ、他の兄弟2人はリタイアで終わりました。ジャンニーノ・マルゾットは13時間40分のタイムでフィニッシュし、当時22歳だった彼はミッレミリア最年少の覇者となりました。レース前の逸話として、こんな話があります。マルゾットがマシンをテストした時に、これまでのように「走らない」感じがしたため、フェラーリに尋ねたところ、若手ドライバーの安全を守るためにチーフメカニックのルイジ・バッツィがエンジンを「抑えた」という答えが返ってきました。そこで、マシンはレースに合わせて改めてフルパワーに戻されることになったそうです。 この年は、さらにFerrari 195 Sと166 MMを駆ってローマ3時間レースとドロミテ・ゴールドカップも制し、マルゾットにとって勝利の年となりました。

1950 Masterpieces