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赤の独占

1シーズンに3つの世界タイトル

赤の独占
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156 F1
246 SP
1962
赤の独占
1961赤の独占
00:00
1961耐久レースでの活躍

赤の独占

1シーズンに3つの世界タイトル

人生には順風満帆で、喜びや成功に満ちあふれている時がある!1961年は、エンツォ・フェラーリにとって最高の年のひとつとなりました。自動車レースにおいて、跳ね馬がスピードの化身となったのです。彼のスクーデリアは、モータースポーツにおいて大きな存在感を示しました。マシンはそれぞれが完璧で、他を寄せ付けない仕上がりとなっていたのです。

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1959年と1960年はどん底の2年間で、F1での勝利を獲得することがほとんどできず、レギュレーションの大きな変更にも苦しめられました。この復活劇はこうした苦しみを経てのことでした。しかし、それ以前に、フェラーリは内なる葛藤と戦っていました。彼は、自身の考えを変え、シングルシーターとスポーツカーのエンジン搭載位置をドライバーの後ろに移すというレイアウト変更に合意しなければならなかったのです。 このときの決断は見事に効を奏しました。F1におけるドライバーズタイトルとコンストラクターズタイトル、そして世界スポーツカー選手権でのタイトルと、一気に3つのタイトルを獲得することができたのです。 もちろん、ヴォルフガング・フォン・トリップスの悲劇的な死があったなど、良いことばかりであったわけではありません。さらに、順調だったこのシーズンは大混乱の中で幕を下ろし、チームはマネージメントと技術担当のトップが一新されることとなりました。 カルロ・キティがデザインしたイチゴーロク156 F1は、それがミッドシップエンジンレイアウトを採用したフェラーリ初のシングルシーターであったことから人々を驚かせました。また、イチゴーロク156F1は、斜めのエアベントを2つ備えたシャープで斬新なノーズデザインが大型の捕食動物を連想させたため、「シャーク」の異名を持っていました。このマシンをドライブしたフィル・ヒルは、モンツァで15人の観客と一緒に事故死したフォン・トリップスに対して1ポイントだけ差をつけてドライバーズタイトルを獲得。同じフェラーリのドライバーであったリッチー・ギンサーも、最終ランキングで5位に入っています。 この年、フィル・ヒルは、ニュルブルクリンクでの予選で9分を切るコースレコードをマーク。F1世界選手権で勝利した初の米国人ドライバーにもなりました。

若いジャンカルロ・バゲッティも、ランスでのF1デビュー戦でイチゴーロク156を駆り、勝利を手にしています。この時のマシンは、スクーデリア・サン・アンブローズがイタリアの連盟から借りたものでした。 世界スポーツカー選手権でも、フェラーリはこの勢いを見せています。スクーデリア・フェラーリは、セブリング12時間で見事な走りを披露し、4台のニーゴーマル250 テスタTesta ロッサRossaが上位4位を独占しました。トップでフィニッシュしたのは、フィル・ヒル/オリヴィエ・ジャンドビアン組です。その後すぐに行われたタルガ・フローリオでも、ベルギー出身のオリヴィエ・ジャンドビアンは、フォン・トリップスと一緒にニーヨンロク246 エスピーSPをドライブして勝利を獲得しています。 ニュルブルクリンクでの1,000 km耐久レースは結果が今一歩(2位から5位)だったものの、ル・マン24時間ではハットトリックという快挙を再び成し遂げています。勝利を収めたのは、またもやヒル/ジャンドビアン組でした。 しかしながら、ペスカーラサーキットにおける最後の世界選手権「ペスカーラGP」では、イタリア人のロレンツォ・バンディーニとジョルジオ・スカルラッティがレースを制しています。 ニーヨンロク246 エスピーSPは、フェラーリがスポーツカーのカテゴリーにおいて、エンジンのミッドシップレイアウトを採用した初めてのマシンです。エアロダイナミクス性能にこだわった造形と、斜めのエアインテークを2つ備える低いボンネットが特徴です。 搭載されたパワーユニットは、2,500 ccのV6エンジンでした。 ニーゴーマル250 テスタTesta ロッサRossa(赤い頭)は、エンジンのシリンダーヘッドを赤く塗っていたことからその名がつけられました。

赤の独占

実際にペイントされていたのはバルブカバーだけですが、その名は今も残り、当時のモデルを思い起こさせます。おそらくこれが、マラネッロの生み出した最も有名なスポーツカーでしょう。ワークスチームやプライベーターのドライバーを意識してデザインされたこのマシンは、新型の3リッターエンジンを搭載していました。

1961 Masterpicies