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スポーツカー選手権

340 MM AND 375 MM DOMINATE SERIES

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スポーツカー選手権
1953スポーツカー選手権
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1953初めての世界タイトル

スポーツカー選手権

340 MM AND 375 MM DOMINATE SERIES

F1世界選手権は、つねにモータースポーツの頂点に位置すると見なされてきましたが、実際、商業的により大きな成功を収めつつ、長期間にわたって技術を進化させてきたのはスポーツカーの方です。オープントップの2シーターは、レーシングマシンとして使用されただけでなく、公道走行用のトリムを装着して市販もされてきました。スピードと恵まれた暮らしを好む当時の裕福な若者に支持されていたのがスパイダーです。

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もちろん、芸能、金融、実業など各分野の著名人やVIPにも人気がありました。実際、企業のバランスシート上では、スポーツカーとそのロードゴーイングカーの販売の方が、シングルシーターの製造よりも多くの収入を生み出していました。 これらの車を指し示すために、バルケッタとプロトタイプという名称も長年にわたって使用されてきました。イタリアの小舟を意味するバルケッタは、とりわけボディのフォルムが小舟をイメージさせたことから用いられたもので、プロトタイプは、競技用車両でロードゴーイングカー用のソリューションをテストするという自動車メーカーの習慣に端を発しています。 1953年、国際自動車スポーツ連盟(FIA)は、世界スポーツカー選手権の運営組織が優勝メーカーに対して直接トロフィーを授与することを認めました。当時、F1世界選手権がドライバーズタイトルのみを授与していたのに対し、世界スポーツカー選手権はコンストラクターの功績を評価することに重きを置いたのです。F1にコンストラクターズタイトルが導入されたのは1958年になってからでした。

そうした理由から、すべてのワークスドライバーがマシンを買う力のある裕福なジェントルマンドライバーと並んで両方のカテゴリーに出場していました。脚光を浴びることに貪欲で力のあるクルマに乗りたがる若いドライバーとペアを組むこともありました。 さらに、ミッレ・ミリア、タルガ・フローリオ、カレラ・パナメリカーナといったスポーツカーカテゴリーの伝説的なレースは、公道や街路で行われたため、レースを人々にとっての身近な存在にすることにも貢献しました。世界で最も有名な耐久レースであるル・マン24時間など含め、コースの一部に公道を使用しているレースは依然として存在します。

1953年のシーズンは米国のセブリング12時間レースで開幕しました。しかし、総合ポイントに加算されるのが各自の成績のうちベスト4までであったため、欧州メーカーは参加を見送っています。そうした中、エド・ランケンとチャールズ・ハッサンによってドライブされた、プライベートチームの166 MMが6位でゴールしています。 第2戦はミッレ・ミリアでした。
スクーデリア・フェラーリは、選手権で好スタートを決めようという思いから、4台の340 MMを投入します。ヴィニャーレがボディを製作した2台は、ジャンニーノ・マルゾット伯爵と米国ライセンスで出場したウェールズ出身のトム・コールがドライブし、トゥーリングがコーチビルダーとなった他の2台は、ルイジ・ビロレージとニーノ・ファリーナによってドライブされました。 トレードマークのシャツとネクタイで着飾ったマルゾットはこのレースを制したうえに、平均速度142 km/hの記録も打ち立てています。彼はナビゲーターを務めた友人のマルコ・クロサーラとFerrari 195 S Coupéを駆り、1950年にも優勝を飾っています。マルゾットが使用した340 MMは、ビロレージが前月のジロ・デ・シチリアで勝利したときのマシンでした。

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最高出力が300 hpを上回る高速マシンではあったものの、その運転には高度なテクニックが必要とされました。しかしマルゾットは、ファン・マヌエル・ファンジオ、フェリス・ボネット、そしてコールを抑えて優勝を飾っています。 続くシーズン第3戦は、マラネッロのマシンにとって不運な展開となります。スクーデリアは、ル・マン24時間レースに、375 MM Berlinetta Competizione Pinin Farinaを3台出走させました。このうち2台には340 MMのエンジンが搭載され、アルベルト・アスカリ/ビロレージ組のマシンには、340 hpの最高出力を発生する375 F1の新しい4.5リッターエンジンが搭載されました。 このレースでは、ジャンニーノとパオロのマルゾット兄弟が5位でのフィニッシュとなり、ニーノ・ファリーナ/マイク・ホーソーン組は、規定で認められていないブレーキフルードを補充したとして失格となってしまいました。 第4戦のスパ24時間レース以降は、3台全ての375 MMに4,500 ccのエジジンが搭載されています。ファリーナ/ホーソーン組がこのレースを制すると、ADAC主催の過酷で権威のあるニュルブルクリンク1000 kmレースでは、ベルリネッタではなくスパイダーを使用したアスカリ/ファリーナ組が優勝を飾りました。 マラネッロはツーリスト・トロフィーへの参戦を見送ると、カレラ・パナメリカーナではルイジ・キネッティとフランコ・コルナッキアのスクーデリア・グアスタッラを通して5台のマシンをエントリーしています。このレースでは、グイド・マンシーニ/ファブリツィオ・セレナ組が4位に入り、世界スポーツ選手権でのタイトル獲得に必要なポイントを稼ぎました。フェラーリの伝説を築く新たな1章が始まった瞬間です。

1953 Masterpieces