各種の瞬間ガレージ
1947
1950
1960
1970
1980
1990
2000
2010
2020
1989
1990

F1GP 100 勝

スクーデリアF1GP100 勝目を記録

F1GP 100 勝
ポッドキャストを再生
F1-90
1991
F1GP 100 勝
1990F1GP 100 勝
1990継続的な革新

F1GP 100 

スクーデリアF1GP100 勝目を記録
1990年7月6日金曜日、ル・キャステレのポールリカール・サーキットにおいて、記念すべき20年目、そして本サーキット最後のF1フランスグランプリGPが開催されました。シーズン第7戦、マクラーレンのアイルトン・セナと、同シーズンからフェラーリへ移籍し、メキシコで勝利を挙げたばかりのアラン・プロストが、予想通りの激しいバトルをまたもや繰り広げました。プロストはライバルの故郷ブラジルで、セナは米国フェニックス、モナコ、そしてカナダで勝利していました。
さらに、ウィリアムズのリカルド・パトレーゼは、サンマリノで勝利を納めています。ポールリカールでのフェラーリは、メキシコシティの時と同様に圧倒的な強さを見せつけました。ナイジェル・マンセルがポールポジションを獲得した一方、プロストはパワフルなエンジンがフリー走行中にブローしたため、予選通過後は、決勝用にチューニングした別のエンジンでグリッドポジションを狙うことになりました。プロストは4番手で、かつてフェラーリを操ったゲルハルト・ベルガー、そしてセナの駆る2台のマクラーレンに続く位置でした。 レースではタイヤが最大の懸案事項とされ、レース終了までに2度のピットストップが必要になるのではと心配されていました。しかし、事前にあまりマークされなかったあるチームには秘策がありました。そのチームとはマーチを前身とするレイトンハウスです。このチームのマシンはレギュレーションを意識しすぎたものであったため、ドライバーのイヴァン・カペリとマウリシオ・グージェルミンが、メキシコで予選落ちを喫しています。27歳のデザイナー、エイドリアン・ニューウェイがフランスグランプリGPの直前にチームを去りましたが、彼はチームを離れる前、エアロダイナミクス性能に磨きをかけた、ル・キャステレのサーキットに最適なマシン「シージーキューマルイチCG901」を導入しました。他のチームが「1回のピットストップのみ」で完走しようとする中、レイトンハウスは驚きの戦略を用意していました。ピットストップなしで走り切ろうとしたのです。ベルガーはスタートでマンセルを追い越し、セナは3番手のままプロストの前を走ります。レース序盤は緩やかに流れたものの、タイヤ交換が差を生み出しました。カーナンバー1のフェラーリは26周目にピットインすると、7秒後にピットアウト。その直後、マクラーレンが30周目を超えても走り続ける一方、マンセルもピットストップしました。レースが進む中で、セナがベルガーをパスします。ベルガーは完璧とは言い難いピットストップのために12秒をロスしましたが、セナの16秒ロスに比較すると、大した問題ではありませんでした。フェラーリにとってすべては順調に事が運んでいるようでしたが、レイトンハウスの2台のマシンが最後までピットストップせずに走り切ろうとするのは、それはまったく思いも寄らないことでした。
その後、マンセルはリタイヤを強いられ、プロストはグージェルミンに追いつきはしても抜き去ることができずにいました。レイトンハウスの新しいエアロパッケージにより、この英国チームのマシンはコーナーからの立ち上がりがフェラーリを上回っていました。コーナーを抜けた後、フェラーリはホームストレートでアタックを仕掛けますが、ヴイジューニV12エンジンの圧倒的なパワーを活かすことができませんでした。
プロストはその後、長時間にわたってポジションを守り続けるグージェルミンをパス、徐々に前を行くカペリに肉迫する走りを見せたのです。全80周の60周目のこと、プロストならカぺリも簡単に捉えるだろうと思われましたが、その考えは誤りでした。カペリは自身のキャリアで最高のレースを披露したのです。この走りがひとつのきっかけとなり、1992年のシーズンにはフェラーリに移籍することとなりました。カぺリは必死に戦いましたが、残り3周のところでフェラーリに抜かれました。 プロストが、カペリとセナを抑えてトップでフィニッシュ。これがフェラーリの100勝目、プロストにとってはシーズン最初の連続勝利となり、その時点でセナをわずか3ポイント差で追いかけることとなりました。コンストラクターズランキングの首位はフェラーリで、83ポイントのマクラーレン 、79ポイントのロータス、そして43ポイントのウィリアムズがその後に続きました。ローマのオリンピック・スタジアムでは、わずか数時間後にサッカーワールドカップのドイツ対アルゼンチン戦が開始されることになっていましたが、イタリアのファンは、最も重要な試合で勝利したことで、すでに満足を味わっていたのです。

1990年の傑作

F1-90
00:00
1990継続的な革新

F1GP 100 勝

スクーデリアF1GP100 勝目を記録

1990年7月6日金曜日、ル・キャステレのポールリカール・サーキットにおいて、記念すべき20年目、そして本サーキット最後のF1フランスグランプリGPが開催されました。シーズン第7戦、マクラーレンのアイルトン・セナと、同シーズンからフェラーリへ移籍し、メキシコで勝利を挙げたばかりのアラン・プロストが、予想通りの激しいバトルをまたもや繰り広げました。プロストはライバルの故郷ブラジルで、セナは米国フェニックス、モナコ、そしてカナダで勝利していました。

F1GP 100 勝

さらに、ウィリアムズのリカルド・パトレーゼは、サンマリノで勝利を納めています。ポールリカールでのフェラーリは、メキシコシティの時と同様に圧倒的な強さを見せつけました。ナイジェル・マンセルがポールポジションを獲得した一方、プロストはパワフルなエンジンがフリー走行中にブローしたため、予選通過後は、決勝用にチューニングした別のエンジンでグリッドポジションを狙うことになりました。プロストは4番手で、かつてフェラーリを操ったゲルハルト・ベルガー、そしてセナの駆る2台のマクラーレンに続く位置でした。 レースではタイヤが最大の懸案事項とされ、レース終了までに2度のピットストップが必要になるのではと心配されていました。しかし、事前にあまりマークされなかったあるチームには秘策がありました。そのチームとはマーチを前身とするレイトンハウスです。このチームのマシンはレギュレーションを意識しすぎたものであったため、ドライバーのイヴァン・カペリとマウリシオ・グージェルミンが、メキシコで予選落ちを喫しています。27歳のデザイナー、エイドリアン・ニューウェイがフランスグランプリGPの直前にチームを去りましたが、彼はチームを離れる前、エアロダイナミクス性能に磨きをかけた、ル・キャステレのサーキットに最適なマシン「シージーキューマルイチCG901」を導入しました。他のチームが「1回のピットストップのみ」で完走しようとする中、レイトンハウスは驚きの戦略を用意していました。ピットストップなしで走り切ろうとしたのです。ベルガーはスタートでマンセルを追い越し、セナは3番手のままプロストの前を走ります。レース序盤は緩やかに流れたものの、タイヤ交換が差を生み出しました。カーナンバー1のフェラーリは26周目にピットインすると、7秒後にピットアウト。その直後、マクラーレンが30周目を超えても走り続ける一方、マンセルもピットストップしました。レースが進む中で、セナがベルガーをパスします。ベルガーは完璧とは言い難いピットストップのために12秒をロスしましたが、セナの16秒ロスに比較すると、大した問題ではありませんでした。フェラーリにとってすべては順調に事が運んでいるようでしたが、レイトンハウスの2台のマシンが最後までピットストップせずに走り切ろうとするのは、それはまったく思いも寄らないことでした。

その後、マンセルはリタイヤを強いられ、プロストはグージェルミンに追いつきはしても抜き去ることができずにいました。レイトンハウスの新しいエアロパッケージにより、この英国チームのマシンはコーナーからの立ち上がりがフェラーリを上回っていました。コーナーを抜けた後、フェラーリはホームストレートでアタックを仕掛けますが、ヴイジューニV12エンジンの圧倒的なパワーを活かすことができませんでした。

F1GP 100 勝

プロストはその後、長時間にわたってポジションを守り続けるグージェルミンをパス、徐々に前を行くカペリに肉迫する走りを見せたのです。全80周の60周目のこと、プロストならカぺリも簡単に捉えるだろうと思われましたが、その考えは誤りでした。カペリは自身のキャリアで最高のレースを披露したのです。この走りがひとつのきっかけとなり、1992年のシーズンにはフェラーリに移籍することとなりました。カぺリは必死に戦いましたが、残り3周のところでフェラーリに抜かれました。 プロストが、カペリとセナを抑えてトップでフィニッシュ。これがフェラーリの100勝目、プロストにとってはシーズン最初の連続勝利となり、その時点でセナをわずか3ポイント差で追いかけることとなりました。コンストラクターズランキングの首位はフェラーリで、83ポイントのマクラーレン 、79ポイントのロータス、そして43ポイントのウィリアムズがその後に続きました。ローマのオリンピック・スタジアムでは、わずか数時間後にサッカーワールドカップのドイツ対アルゼンチン戦が開始されることになっていましたが、イタリアのファンは、最も重要な試合で勝利したことで、すでに満足を味わっていたのです。

F1GP 100 勝

1990年の傑作