各種の瞬間ガレージ
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1969
1970

512 Sの奇跡

3カ月の開発と25台の車

512 Sの奇跡
312 B
512 M
512 S
1971
512 Sの奇跡
1970512 Sの奇跡
1970ニキからジョディーへ

512 Sの奇跡

3カ月の開発と25台の車
1969年後半、フィアットに50%の株式を売却した後、エンツォ・フェラーリは、5リッターエンジンのクラスの新しいスポーツモデルの製造に着手することができるようになります。モデルの形式認証を得るには、25台の製造が必要ですが、時間の余裕がない中、マウロ・フォルギエリとチームはわずか3ヶ月で車の設計と製造を完成させます。こうして国際メーカー選手権のグループ5に出場するための512 Sが公式に誕生しました。
このモデルは、P4とCAN AM 612に由来するマルチチューブラー・セミモノコック軽合金製フレームを採用し、1気筒あたりバルブ4つを備える4993.53 cc V12エンジンをミッドシップのレイアウトで搭載、最高出力550 hp、最高速度は340 km/hに達するパワーを発揮するものでした。最大重量に耐えるよう、エンジニアのジャコモ・カリーリが設計したボディはポリエステル製でした。ボディとアンダーボディのパーツとしてプラスチックやガラスファイバーの使用が増加していた当時の傾向が反映されています。512 Sは、競技用スポーツプロトタイプの新しいトレンドとなるクローズド・コックピット、そしてそれまでのルーフを持たないオープン・コックピットの両方のバージョンが製造されました。このモデルは、ル・マンのユノディエールのロングストレートで最高速度を上げるため、テールを長くしたエアロダイナミクスボディを備えていました。当時このストレートはシケインがなく、全長5 kmを超えるものでした。512 Sは、アンドレッティ/メルツァリオ/イクス組と共にデイトナでレースデビューし、3位入賞を果します。さらに検証の場をセブリング12時間レースに移すと、512 Sベルリネッタ、クローズド・コックピット・バージョンを駆るギュンティ/バッカレラ/アンドレッティ組が初優勝を飾りました。メルツァリオと組んで走らせていた自分のオープン・トップ・バーションがギアボックスのトラブルでリタイヤを余儀なくされた後、アンドレッティはレースの最後までクローズド・バージョン車のハンドルを握り、ピーター・レブソンと俳優のスティーブ・マックイーンのポルシェ908を抑えて優勝を飾りました。シーズンを通してフェラーリとポルシェ917Kの戦いは続きましたが、フェラーリがこれを超える結果を達成することはありませんでした。ブランズハッチの1000 kmレースではエイモン/メルツァリオ組が5位、モンツァの1000 kmレースでは512 Sがマトラを抑えたものの2位と4位。
バッカレラ/ギュンティ組はタルガ・フローリオで見事3位に入賞し、スパの1000 kmレースではイクス/サーティース組が2位、バッカレラ/ギュンティ組は4位。さらにニュルブルクリンクでは、イクス/サーティース組が3位、スイスのスクーデリア・フィリピネッティチームから出場したパークス/ミューラー組が4位でした。ル・マン24時間レースは常にシーズンの中核を成すイベントですが、この年、跳ね馬は残念ながら大敗し、プライベートチームの2台の512 Sが辛うじて4位と5位に入るというありさまでした。ワトキンズグレン6時間レースは、アンドレッティ/ギュンティ組が3位、イクス/シェティ組が5位でした。とはいえ、1年を通してベルギーのゾルダー500 kmや富士200マイルなど、多数のプライベートチームがさまざまなレースで成功を収めました。 シーズンも終わり近くになって、ル・マンでのみじめな結果を受けてデビューしたのが改良バージョンの512 Mです。512 Sを凌ぐ大きなパワーと先進のエアロダイナミクスを備えたこのモデルは、イクス/ギュンティ組によってキャラミ9時間レースの優勝を飾りました。 しかしエンツォ・フェラーリがこのモデルの開発継続を望むことはなく、512 Mはプライベートチームに放出されました。
1972年以降メーカー選手権の対象が3リッタースポーツモデルに変更されるのを機に、エンツォは312P/Bプロジェクトを立ち上げます。これが、ブランドを挙げてF1に専念する前、フェラーリ最後のバルケッタでした。1971年には、NARTチームの512 Sとペンスキーチームのブルーの512 Mがデイトナで2位と3位に入るという素晴しい活躍を見せました。その後、1971年の唯一の512 M公式出場となったインターシリーズ選手権イモラ300 kmレースにおいて、メルツァリオが優勝しています。

1970 Masterpieces

312 B
512 M
512 S
00:00
1970ニキからジョディーへ

512 Sの奇跡

3カ月の開発と25台の車

1969年後半、フィアットに50%の株式を売却した後、エンツォ・フェラーリは、5リッターエンジンのクラスの新しいスポーツモデルの製造に着手することができるようになります。モデルの形式認証を得るには、25台の製造が必要ですが、時間の余裕がない中、マウロ・フォルギエリとチームはわずか3ヶ月で車の設計と製造を完成させます。こうして国際メーカー選手権のグループ5に出場するための512 Sが公式に誕生しました。

512 Sの奇跡

このモデルは、P4とCAN AM 612に由来するマルチチューブラー・セミモノコック軽合金製フレームを採用し、1気筒あたりバルブ4つを備える4993.53 cc V12エンジンをミッドシップのレイアウトで搭載、最高出力550 hp、最高速度は340 km/hに達するパワーを発揮するものでした。最大重量に耐えるよう、エンジニアのジャコモ・カリーリが設計したボディはポリエステル製でした。ボディとアンダーボディのパーツとしてプラスチックやガラスファイバーの使用が増加していた当時の傾向が反映されています。512 Sは、競技用スポーツプロトタイプの新しいトレンドとなるクローズド・コックピット、そしてそれまでのルーフを持たないオープン・コックピットの両方のバージョンが製造されました。このモデルは、ル・マンのユノディエールのロングストレートで最高速度を上げるため、テールを長くしたエアロダイナミクスボディを備えていました。当時このストレートはシケインがなく、全長5 kmを超えるものでした。512 Sは、アンドレッティ/メルツァリオ/イクス組と共にデイトナでレースデビューし、3位入賞を果します。さらに検証の場をセブリング12時間レースに移すと、512 Sベルリネッタ、クローズド・コックピット・バージョンを駆るギュンティ/バッカレラ/アンドレッティ組が初優勝を飾りました。メルツァリオと組んで走らせていた自分のオープン・トップ・バーションがギアボックスのトラブルでリタイヤを余儀なくされた後、アンドレッティはレースの最後までクローズド・バージョン車のハンドルを握り、ピーター・レブソンと俳優のスティーブ・マックイーンのポルシェ908を抑えて優勝を飾りました。シーズンを通してフェラーリとポルシェ917Kの戦いは続きましたが、フェラーリがこれを超える結果を達成することはありませんでした。ブランズハッチの1000 kmレースではエイモン/メルツァリオ組が5位、モンツァの1000 kmレースでは512 Sがマトラを抑えたものの2位と4位。

バッカレラ/ギュンティ組はタルガ・フローリオで見事3位に入賞し、スパの1000 kmレースではイクス/サーティース組が2位、バッカレラ/ギュンティ組は4位。さらにニュルブルクリンクでは、イクス/サーティース組が3位、スイスのスクーデリア・フィリピネッティチームから出場したパークス/ミューラー組が4位でした。ル・マン24時間レースは常にシーズンの中核を成すイベントですが、この年、跳ね馬は残念ながら大敗し、プライベートチームの2台の512 Sが辛うじて4位と5位に入るというありさまでした。ワトキンズグレン6時間レースは、アンドレッティ/ギュンティ組が3位、イクス/シェティ組が5位でした。とはいえ、1年を通してベルギーのゾルダー500 kmや富士200マイルなど、多数のプライベートチームがさまざまなレースで成功を収めました。 シーズンも終わり近くになって、ル・マンでのみじめな結果を受けてデビューしたのが改良バージョンの512 Mです。512 Sを凌ぐ大きなパワーと先進のエアロダイナミクスを備えたこのモデルは、イクス/ギュンティ組によってキャラミ9時間レースの優勝を飾りました。 しかしエンツォ・フェラーリがこのモデルの開発継続を望むことはなく、512 Mはプライベートチームに放出されました。

1972年以降メーカー選手権の対象が3リッタースポーツモデルに変更されるのを機に、エンツォは312P/Bプロジェクトを立ち上げます。これが、ブランドを挙げてF1に専念する前、フェラーリ最後のバルケッタでした。1971年には、NARTチームの512 Sとペンスキーチームのブルーの512 Mがデイトナで2位と3位に入るという素晴しい活躍を見せました。その後、1971年の唯一の512 M公式出場となったインターシリーズ選手権イモラ300 kmレースにおいて、メルツァリオが優勝しています。

512 Sの奇跡

1970 Masterpieces