1953年の第1回世界スポーツカー選手権は、70年前の今月、劇的な幕を閉じました。フェラーリは最初の世界チャンピオンとなりましたが、166 MMで始まったウイニングランは今日の499Pまで続いています
現在も存続する世界最古の耐久スポーツカーレースが今年100周年を迎えたル・マン24時間レースです。フェラーリはそこでスクーデリアにとって10回目となる歴史的な勝利を飾りました。
最初のル・マンレースから20年後の1953年、FIA主催の下で、世界の主要なスポーツカーレースは、単一の選手権を立ち上げるために団結します。
世界スポーツカー選手権は、難易度が高く危険な7つのレースシリーズで構成されました。その中には、イタリアを巡るミッレミリアのような公道を走るレースや、波乱に満ちたニュルブルクリンク1000kmなどの最難関のサーキットを走行するものもありました。ベルギーでは高速のスパ・フランコルシャン24時間レースがあり、もちろん最高の自動車レースであるル・ マン24時間レースも含まれました。なかでも最も危険な最終レースのカレラ・パナメリカーナ・メヒコは、1953年11月23日、つまりちょうど70年前に終了しました。
この選手権はドライバーではなくマニュファクチャラーが主体で、フェラーリが最初の世界チャンピオンに輝きます。レースには、ジャガー、アストンマーティン、ランチア、アルファロメオ、ポルシェなど、当時の最高のスポーツカーメーカーが参加しました。ドライバーもファンジオ、アスカリ、ファリーナ、モス、コリンズ、ホーソーンなど世界最高の選手たちでした。当時のF1のトップドライバーは、F1だけでなくスポーツカーレースにも出場していました。エンツォ・フェラーリは、ドライバーたちが、自分がどのカテゴリーを選んでもスクーデリアでレースしてくれることを望んでいました。
米国フロリダ州のセブリングでシーズンが始まりました。スクーデリアはこのレースに出ないことを選択しますが、フェラーリのプライベートチームが166MMで6位に入ります。
1ヶ月後の4月にはミッレミリアが開催されました。ジャンニーノ・マルゾット伯爵が駆るFerrari 340 MMは、2度のマイナークラッシュや開かなくなったボンネットにも屈することなく(メカニックはボンネットに穴を開けてオイルを交換)、優勝候補だったチームメイトのヴィロレージとファリーナを破ります。優勝車は現在、モデナのエンツォ・フェラーリ博物館に展示されています。6月のル・マンでは、ジャガーがフェラーリと接戦の末、優勝を飾ります。その1ヶ月後のスパ・フランコルシャン24時間レースは、ホーソーンとファリーナのFerrari 375MMが、2位のジャガーに18周の差をつけて圧倒的な勝利を収めました。340 MMをさらにパワフルに進化させた375 MMは、F1ベースのV12エンジンの排気量が4.1リッターから4.5リッターに増加していました。
8月のニュルブルクリンク1000kmにおいても、Ferrari 375MMは再びF1世界チャンピオンに君臨するアルベルト・アスカリ(パートナーは1950年世界チャンピオンのジュゼッペ・ファリーナ)が15分以上の差をつけて優勝します。
フェラーリはこのシリーズでリードしていましたが、北アイルランドのダンドロッドサーキットで行われた最後から2戦目のRACツーリスト・トロフィーには、出場しないことを選択します。霧に見舞われたレースで、後にフェラーリに加わるピーター・コリンズが、アストンマーティンを駆り優勝しました。そのため、シリーズの決定戦は、メキシコのカレラ・パナメリカーナに持ち越されました。フェラーリは、唯一のタイトルライバルであるジャガーと同様に、プライベートチームが頼りでした。
ランチアのファンジオが勝利し(事故で命を落とした3人のうちの1人がチームメイトのフェリーチェ・ボネットだった)、グイド・マンチーニのFerrari 375 MMは4位に入ります。フェラーリにとって初の世界スポーツカー選手権を決めるには十分な結果でした。
このシリーズは、その後さらに成長を遂げ、タルガ・フローリオ(1955年~)やデイトナ24時間レース(1966年~)など、他のすばらしいレースも取り込んでいきます。フェラーリは、1954年に再びタイトルを獲得し、1回を除いて1956年から1965年まで毎年チャンピオンに輝きました。70年を経た現在、このシリーズは世界耐久選手権として知られており、スクーデリアはハイブリッドレーシングカー(ル・マン優勝車)の499Pで栄光を追い求め続けています。