フェラーリが2000年に日本で記録した伝説的勝利
文:マット・マスター
F1 日本GP開幕前、フェラーリが鈴鹿で成し遂げた伝説的な勝利を振り返る
鈴鹿サーキットは、重く垂れ込めた暗雲に覆われていました。伊勢湾岸にあるこの1周 6kmのサーキットでは、これまで何度もドラマチックなレースが繰り広げられて来ました。この年もまた、シーズンの締めくくりに向けて、世界中がこの一戦に注目するレースの舞台が整えられました―3年連続タイトルに向けて意欲を燃やすマクラーレンに対して、20年以上もドライバーズ・タイトルから遠ざかっていたフェラーリは、タイトルに王手をかけて日本GPを迎えました。
何年にも渡って開発と投資を続け、前年はあと一歩のところで王座を逃したスクーデリア・フェラーリでしたが、再びその機会が来たのです。期待は高く、プレッシャーは計り知れませんでした。鈴鹿はいずれまた、F1の頂点を極める壮絶な決戦の舞台となるでしょう。しかしマラネッロにとって、この年の鈴鹿での一戦は、逃してはならない歴史的にも重要なレースでした。
ミハエル・シューマッハのV10エンジンを搭載した F1-2000がグリッド最前列に向かってゆっくりと進み、ポールポジションに着きます。王座争いをしているライバル、ミカ・ハッキネンのメルセデス・エンジンを搭載したマクラーレンMP4/15がフロントローに並びました。
前のレースでエンジン・トラブルに見舞われたハッキネンは、8ポイント差のランキング2位でこのシーズン最後から2番目のレースを迎えました。それは、シューマッハがここで勝利すれば、彼とフェラーリにとって念願のドライバーズ・タイトル獲得が確定することを意味していました。
ライトがブラックアウトすると同時にハッキネンが完璧なスタートを切り、シューマッハはその後方に着きました。1コーナーまでにポジションを奪われたシューマッハは、オープニングラップから首位に立った冷静沈着なハッキネンがクリーンな空気の中でリードを維持したまま周回するのを背後で見ていることしかできませんでした。
マクラーレンにとっては幸いなことに雨はなかなか降らず、ハッキネンはレース中盤までウェット・ドライビングの達人、シューマッハを大きくリードしました。15万人を超える鈴鹿のファンは、完全無欠なマシンとドライバーによって、勝負が動く気配は全くなく、誰もが逆転不可能だと感じていました。
しかし、同じように動じなかったのは、フェラーリのテクニカルディレクターで比類ない戦略家のロス・ブラウンでした。彼のピットウォールからレースをコントロールする能力の高さはすでに伝説となっていました。
予想通り、首位争いを演じている2人が周回遅れのマシンに追い付いた際に差は縮まり、マクラーレンが2回目のピットストップに入ったタイミングで、シューマッハは反撃のチャンスをつかみました。後方集団のマシンが、それぞれ予定していたピットインを敢行し、コースがクリアになったところでシューマッハは卓越した速さで周回してリードを築きました。
ハッキネンがレースに復帰した時にはフェラーリから約30秒遅れていました。この時点では、すでに予想されていた雨足が強くなり、ハッキネンはウェット・ドライビング・マイスターの卓越したテクニックを目の前で眺めることとなりました。
一瞬たりとも油断できないコンディションの中、摩耗したタイヤで重ねた誰も手の届かない連続ラップがレースの決定打となり、シューマッハは、最後のピットストップを終えてコースに復帰してもそのままリードを維持するに十分なマージンを築くことができました。
シューマッハはついに53周目にトップチェッカーを受け、シーズン8度目の優勝とドライバーズ・チャンピオンシップ・タイトルを手にしました。フェラーリは、1979年にジョディ・シェクターがタイトルを獲得して以来、耐えに耐えてきた低迷期を脱出し、チームはこの時代には前例のない圧倒的な支配力を誇る黄金期を迎えることになります。
シューマッハの不屈の力、それに友好同盟のブラウンによって、この年からスクーデリア・フェラーリは、ドライバーズとコンストラクターズのダブルタイトル5連覇を達成しました。