「ノー・モア・ベット!」(賭ける時間は終了です) 1981年5月31日に、27番の赤いマシンがルーレットのようなモナコのサーキットに姿を現します。ジル・ヴィルヌーヴが駆る、ターボ・エンジン搭載のフェラーリです。モンテカルロのバンクを破壊するようなテクニカル・リスクは、これまで認められたことがありません。しかし、それはターボ・エンジンの性能によるテクニカル・リスクではありませんでした。モナコ・サーキットの曲がりくねったレイアウトにはふさわしくない加速と操縦によるものだったのです。ヴィルヌーヴと彼のFerrari 126 CKは、このサーキットにおいて、F1の歴史に新たな1章を加えました。モンテカルロでのターボ・エンジンによる初勝利、 ターボ・エンジンによるフェラーリの初勝利、 そして1年半ぶりの彼自身の勝利によって。つまり、呪文が完全に解かれ、ヴィルヌーヴとフェラーリは再びキー・プレイヤーとなったのです。
ヴィルヌーヴのキャリアにおける勝利の中で、モンテカルロでの勝利は、おそらく「華麗」でも記憶に残るものでもありませんが、独特の味わいがあります。レース直前には、ヴィルヌーヴとフェラーリとの新たな2シーズン契約が発表されました。予選はヴィルヌーヴがスタート直後から非常に見事なレース運びを見せ、ポール・ポジションを手にしたブラバムのピケと並んでスターティング・グリッドのフロント・ポジションを獲得します。
レースは、ロウズ・ホテルのキッチンを火元とした火災により1時間遅れで始まりました。消防士らの努力によって火災はすぐに鎮火しましたが、トンネルが水びたしでした。ネルソン・ピケは、油断を許さない3.312kmのサーキットにおいて、追撃者たちを抑えて首位に立ちます。76周にわたるレースは、多くのドライバーがリタイアすること想定されていて、事実上、脱落を免れることが決め手となりました。そしてピケも脱落者に含まれてしまいました。周回遅れのチーバーとタンベイをオーバーテイクする際にクラッシュしてしまったのです。現世界チャンピオンのアラン・ジョーンズがレースを牽き、彼を追うヴィルヌーヴに対して32秒を超えるリードを奪っていたことから、彼が優勝を飾るかのように見えました。しかし、ウィリアムズのジョーンズは、ピックアップのトラブルによって、7周を残して燃料を補給する必要が生じます。
先頭で復帰をしたものの、追撃を狙って高速ラップを刻み始めたアグレッシブなヴィルヌーヴとバトルを繰り広げなければなりませんでした。ヴィルヌーヴのフェラーリは、各コーナーで限界付近の走りを見せると、ガードレールにますます接近していきます。それでも、彼が失敗をすることはありません。ヴィルヌーヴは、これまで巻き込まれた数多くの途方もないアクシデントによって「飛行士」のニックネームで呼ばれていました。彼はモナコの上り坂や下り坂と戯れ、トンネルの下では、エンジンのパワーを生かしてタバコ・コーナーまでフェラーリを陽気なダンスに誘うと、ミラボーとロウズ・ヘアピンの間に位置する息をのむようなコースをたどります。
残り4周となったとき、ジョーンズが駆るウィリアムズのマシンは、そのリヤ・エンドがフェラーリの視界に入ります。オーバーテイクは一瞬の出来事でした。ヴィルヌーヴは、ジョーンズの追撃を始めます。彼はスタート・ストレートにつながる最終コーナー(アントニー・ノーズ)をすでに抜けていました。ジョーンズが右側のミラーにヴィルヌーヴの車を確認したのは、まさにこのときでした。防御の操作を始めたときは、すでに手遅れでした。フェラーリのサイド・パネル後方にあしらわれた27番の数字が見えたと思ったら、ヴィルヌーヴはジョーンズを抜き去り、勝利を狙えるだけのリードを確保しました。
スターティング・グリッドに並んだ20名のドライバーのうち、23周の段階で残っていたのはわずか7人で、ヴィルヌーヴがその先頭を走っていました。フェラーリのドライバーは前進を続けます。ライバルが燃料ポンプのトラブルに見舞われたこともあり、2位に40秒以上の差をつけてフィニッシュ・ラインを通過します。表彰台に立ったとき彼は疲れ切っていましたが、シャンパンのシャワーの下で喜ぶ彼の姿を写した写真は、世界中に配信されました。覇者となったヴィルヌーヴは、TIME誌の表紙を飾ります。アメリカのニュース週刊誌がF1に表紙を捧げたのは、1965年のジム・クラークに続いて2回目のことでした。