そのときの250GTOにテールスポイラーがありませんでしたが、1962年3月に行われたアメリカのセブリングでレースデビューを飾ったときには装着されていました。緒戦の12時間レースで、フィル・ヒル/オリヴィエ・ジャンドビアン組が駆る250GTOは、同じフェラーリのスポーツレーシングカー、250テスタロッサに次ぐ総合2位で完走しただけでなく、GTカテゴリーでは楽々と優勝を飾っています。周囲の人々を感嘆させるデビューパフォーマンスであり、250GTOはこれを第1歩に、その後3年にわたるレーシングヒストリーを築くことになります。
250GTOは250GT“SWB”から派生したモデル。もとになった250GT “SWB”同様、ホイールベース2400mmのシャシー上にボディを架装していました。シャシーの組み立ても同じラインに沿っていましたが、250GTOでは一回り細い断面の鋼管を用いており、その代わりにクロスメンバーの数を増やしてねじり剛性を上げていました。このシャシーはティーポ539/62 Comp.と呼ばれ、後期型はティーポ539/64Comp.と呼ばれるものです。初期型250GT “SWB”ベルリネッタ同様、4輪にディスクブレーキが備わり、ケーブル作動のパーキングブレーキは後輪に効きます。左右どちらのハンドルも選ぶことができました。
250GTOの開発の初期段階は秘密に包まれていました。ジャガーEタイプに挑戦して勝てるクルマを開発する役目を託されたのはジオット・ビッザリーニ。長年にわたる様々なインタビューで、ビッザリーニはこのプロジェクトのベースとして古い250GTボアーノのシャシーを1台渡されたと語っています。しかし社内の記録には、彼に渡されたのは250GT“パッソ・コルト”のシャシー(シャシーナンバー1791GT)だったと記されています。
1961年9月、イタリアGPに先だってモンツァに現れます。ここで“イル・モストロ(ザ・モンスター)”というニックネームが付きました。ざっと切り出したパネルを大ざっぱに組んだプロトタイプボディがそう見えたのです。このテストセッションで、スターリング・モスは250GT“パッソ・コルト”をはるかに上回るレコードタイムを250GTOで記録しました。そんな折、同年11月に、カルロ・キティをはじめとする8人の重役がフェラーリから去るという“クーデター”が起こり、ビッザリーニは気づいてみたら外に放り出されていました。こうして250GTOのボディの開発はセルジオ・スカリエッティに任されることとなります。250GTOのボディ最終型を造ったのはスカリエッティなのです。
上記の64年型ボディを架装したクルマを別として、生産されたすべての車両にはノーズに“D”の字をしたリッドが3枚付いています。これは4分の1回転させることで脱着ができるファスナーで留められており、ラジエターへの空気流入量を増やすのが目的でした。カバーなしの同型のオープニングがやはり3カ所ノーズパネル下面に反復されています。
250GTOベルリネッタは、先代モデルである“パッソ・ルンゴ”と“パッソ・コルト”の成功を引き継ぎました。1962年はメーカー選手権がGTカテゴリーに移行した年ですが、その1962年から1964年までフェラーリはハットトリックを演じているのです。同クラスでは事実上敵なしで、現役最後の年にようやくACコブラ(はるかに大排気量のV8エンジンを搭載)に捕まえられたにすぎません。250GTOが国際レースで挙げた成功は枚挙に暇がありませんが、以下にごく一部を列挙します。
・1963年と64年のトゥール・ド・フランスで優勝。
・1962年、63年、1964年のタルガ・フローリオでGTクラス優勝。
・1962年と63年のグッドウッドにおけるツゥーリスト・トロフィで優勝。
・1962年と63年のルマンでGTカテゴリー優勝。
・1963年と64年のニュルブルクリンク1000kmでGTカテゴリー優勝。
250GTOはフェラーリ250GTモデルの究極です。公道でもサーキットでも卓越した性能を発揮しました。ロードカーとレーシングカーのふたつの目的をもって製作されたおそらく最後のクルマだと思われ、フェラリスタのあいだでは伝説的な存在となっています。生産台数が36台と比較的少なく、それぞれのクルマが偉大なレースヒストリーを持っているだけに、フェラーリ生産車の象徴であり、今やコレクターから畏敬の目で見られるほどのステータスを獲得しているのです
250GTOとは、ロードカーの範疇で250GTをコンペティションバージョンとして発展させた頂点に位置するモデルです。フェラーリはレースシーズン前にプレスコンファランスを毎年行いますが、250GTOがその姿を一般の人々の前に初めて現したのは1962年1月の同会場においてでした。展示されたなかで250GTOは唯一のフロントエンジンのレイアウトを採用していました。フェラーリのシングルシーターやスポーツレーシングカーはどれもミドシップになっていたのです。
フォトギャラリーでは、この1962年型フェラーリ・モデルの細部および最も重要部分とともに車輌の際立つ特徴をお愉しみいただけます。
パワーユニットは、各バンクに1本のカムシャフトを持つジョアッキーノ・コロンボ設計の3リッターV12。73mm x 58.8mmのボア・ストロークも共通でしたが、潤滑はドライサンプに変更されています。
プラグはVバンクの外側に配されており、ツインチョークのウェバー38 DCNキャブレターを6基並べました。点火を受け持つのは2基のコイル、ディストリビューターはエンジンにマウントされており、公表出力は300bhp。
シリーズ生産車の最後の3台は、ミドエンジンの250LMスポーツレーシングカーに非常によく似た、ピニンファリーナがデザイン、スカリエッティが組み立てを担当したボディが架装されています。さらに、初期型のうち4台は1964年に後期型ボディに載せ替えられたことがわかっています。確かに全体のフォルムは大幅に変わることはありませんでしたが、生産期間中、細部の変更は多岐にわたります。
初期型ボディは小さな楕円形ラジエターオープニングの両側に角形のドライビングライトが付きます。当初、ブレーキ冷却用ダクトはノーズ下にありましたが、ノーズのドライビングライト横に開いた縦型のブレーキ冷却用スロットに変わっています。車幅灯はプレキシグラスでカバーされたヘッドライトの下にマウントされています。リアスポイラーはテールパネルにボルト留めされ、クォーターパネルにキャビン換気用スロットが口を開いています。ブレーキ冷却用ダクトはまもなく丸形になり、車幅灯はフェンダーサイド部の浅いくぼみに移されました。これら一連の変更が完了してまもなく、テールスポイラーが同じ断面形状ながらリベット留めとなり、ボディ構造の一部をなすようになっています。
64年に本来のボディを架装されたクルマと、ボディを換装されたクルマとの間にも細かな違いがあります。まずルーフ形状については、長いルーフ、短いルーフに一体型スポイラーが付いたもの、短いルーフでスポイラーのないものが存在します。次にボンネットについては、ノーズに向かって先細りになる長くてスリムなバルジが付いているものと、冷却口が開いているものとがあります。レース現役時代に多数のクルマがモディファイを受けており、特に目立つのはフロントフェンダーに開いた3番目の換気スロットです。また、放熱を助けるためにボンネットにルーバーを追加した個体もあります。こうした大きな違いを別として、個々のクルマには無数の相違点がある。一段高い“ブリッジ“の上にテールライトをマウントしたクルマがあれば、テールパネルに直づけしたクルマもあるという具合です。